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東京高等裁判所 昭和52年(ラ)694号 決定 1977年12月01日

抗告人 坪川礼子(仮名)

主文

本件抗告を棄却する。

理由

一  本件抗告の趣旨及び理由は別紙記載のとおりである。

二  当裁判所の判断

一件記録によれば、抗告理由1の(1)ないし(5)の事実を認めることができる。

ところが、氏の変更はやむを得ない事由がある場合に限つて許されるものであるところ、抗告人はその事由として、壺川の呼称は抗告人の唯一の日本名として主観的にも客観的にも固定していたと主張するが、右はひつきよう、壺川という通姓の永年使用を主張するものと解されるところ、抗告人は永田晃男との婚姻によりその婚姻中の数年は帰化後は勿論帰化前も永田の姓を使用していたものと推定されるから、果して永年使用と解し得るか疑問があるのみならず、仮に、そうであると解しても壺川の壺の字は戸籍法五〇条の常用平易な文字とは解されず、改氏の場合も同条の趣旨を尊重するのが相当であるから常用平易な文字である坪川の氏から然らざる壺川の氏に変更することはやむを得ない事由にあたるとはいえない。

更に抗告人は、抗告人は婚姻前は韓国籍であつたから離婚によつて復氏すべき氏はないが、壺川の呼称は婚姻迄は抗告人の通姓であつたから、婚姻前の氏と同等に評価すべきであると主張するが、抗告人は日本人と婚姻中に我国に帰化し、離婚によつて新たに戸籍を編成した訳であるから、予め戸籍上の氏を有していた日本人同志の離婚に伴う復氏の場合と法理を異にし、結局右主張は抗告人が婚姻迄壺川という通姓を使用していた事情を主張するに帰するところ、抗告人が離婚に際し新たに選定すべき氏は当然前記戸籍法の趣旨に則り常用平易な文字でなければならず、その理は改氏にあつても同様であることは前述のとおりであるから、右主張は採用できない。

そしてその他一件記録に徴するも、抗告人に対し本件改氏を認めるべきやむを得ない事由は見出すことができないから、抗告人の本件申立は失当である。

結局右と同旨に出でた原審判は相当であり、本件抗告は、理由がないから、これを棄却すべく、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 吉岡進 裁判官 園部秀信 前田亦夫)

(参考) 即時抗告申立書

抗告の趣旨

原審判を取消し、本件を東京家庭裁判所に差戻すとの裁判を求める。

抗告の理由

1 抗告人は以下の実情から本件氏変更許可の申立に及んだものである。

(1) 抗告人は、昭和二一年九月一〇日父壺川義夫こと李昭基と母壺川陽子こと宋陽子(いずれも韓国籍)の長女として大阪市○○区で出生し、礼子と命名された。

(2) 抗告人の父母は、いずれも韓国籍であるが、昭和一二年ごろ日本へ来て以来日本国内に居住し、日本名として「壺川の姓を使用して永年社会生活を続けているものである。

(3) したがつて、その子である抗告人も当然「壺川」の姓を用い出生以来永年「壺川礼子」として学校生活、社会生活を営んできたものである。

(4) 抗告人は、昭和四八年一二月永田晃男と婚姻し、その間に昭和四九年八月二五日長女香代を出産したが、昭和五二年二月二八日協議離婚した。抗告人は、この離婚前である同月九日帰化により日本国籍を取得し、一旦は夫である永田晃男の戸籍に入籍したのであるが、離婚により新たに戸籍を編製するにつき、離婚届に際し「壺川礼子」として届出たところ、区役所係員から「壺」という字は使用できないので「坪」という字を使用するようにとの指導を受けた結果、「坪川礼子」の氏名にて新戸籍が編製された。

なお、長女香代も抗告人がその親権者となつたことにより同一戸籍にある。

(5) 以上の経過により、抗告人は「坪川」の氏となつたものであるが、離婚後婚姻前の生活の本拠であつた○区○○○×-××-×の両親の住居に復帰し、両親と同一である旧来の「壺川」姓を名乗り生活している。

(6) 以上のとおり、抗告人の姓はむしろ「壺川」の呼称で個人的にも社会的にも固定しているものと見られるので、抗告人に「坪川」の氏を使用させることは抗告人にとつては勿論、社会的客観的にも適当でない。

2 しかるに、原審は以上の実情を認めながら、(1)「壺川」なる呼称は通姓にすぎないから民法第七六七条第一項にいう「婚姻前の氏」には該当せず、離婚によつて「壺川」なる氏に復氏したわけでなく離婚に当り新しく氏を定めて新戸籍をつくるわけであるから、新しい氏については戸籍法第五〇条の趣旨に従い常用平易な当用漢字表なり人名用漢字別表なりによるべきであつて、「壺」なる字は同漢字表に該当せず、人名としてはその使用が制限されている以上、抗告人が「壺川」なる通姓を使用しているとしても離婚による新戸籍編製に際し定めた「坪川」なる氏を「壺川」に変更しなければならない戸籍法第一〇七条第一項所定の「やむを得ない事由」に該当するとは解せられないとし、(2)のみならず、「壺」なる字は手書きする上で相当に困難な字画に属し、別字である「壼」(コン)なる字と誤記されやすく、又(3)世上(つぼかわ)なる氏は「坪川」と表記されるのが一般であることを考えれば比較的平易な「坪川」なる現在の氏を字画の難しい「壺川」なる氏に変更しなければならない必要性はすこしもないとして、抗告人の申立を却下したものである。

3 しかしながら、以上の原審の判断は形式論に過ぎるというべきである。即ち、抗告人はもともと韓国籍であり、日本人永田晃男との婚姻中である昭和五二年二月初頃帰化したことによりはじめて日本国籍を取得したのであるから、同人との離婚によつて抗告人が復すべき戸籍及び氏は存在せず、したがつて、抗告人が出生以来永田との婚姻前まで日本名として使用して来た「壺川」なる呼称がいわゆる通姓であつて民法七六七条第一項にいう「婚姻前の氏」に当らないというのは当然のことである。しかしながら、抗告人は韓国籍であつたが故に日本国法における氏がなかつたのであり、「壺川礼子」なる呼称が抗告人の婚姻前の日本国内における唯一無二の日本名として主観的にも客観的にも固定していたものとすれば、「壺川」の呼称は実質的には抗告人の「婚姻前の氏」と同等の評価を与えてしかるべきである。したがつて、これを離婚に際し抗告人の「婚姻前の氏」として法手続上処理することは勿論許されないが、少くとも新戸籍の編製に当り抗告人が生来の呼称であるという事情から「壺川」を抗告人の氏として選定した場合にはこれを出来る限り尊重するのが相当であり、その文字が単に常用平易な当用漢字表なり人名漢字別表なりに該当しないという理由だけでこれを否定するのは不当である。原審は、新しく氏を選定する場合は戸籍法第五〇条の趣旨に従うべきであるというが、同条は出生した子の名を定める場合の規定であり、その限りにおいて本件のような問題の生ずる余地はないのであつて本件のように新しく氏を選定する場合にも原則的にはその趣旨を尊重すべきであることは勿論であるが、本件のような特殊な事情の存する場合にもこれを強調すべき性質のものではないと考える。但し、「壺川」の呼称が抗告人の生来の姓として社会的にも定着しているとみられるかどうかという事情は、届出に際し区役所吏員の審査すべき事項ではないから、同吏員が「壺」なる字が当用漢字表又は人名漢字別表に存在しないという理由でその受理を拒否し、「坪川」に改めるよう指導し訂正させたうえ受理したことは手続上当然というべきである。(抗告人は届出に際し事情を述べたうえ「壺川」の氏を是非使用したいと申出たところ、「坪川」と訂正するよう指導され、もしそのような事情があるのであれば、後日家庭裁判所に変更許可の申立をすれば容易に許可されるはずであるとの説明を受けている。)しかし、こうして手続上一旦は抗告人の新しい氏として「坪川」なる記載の戸籍が編製されたとしても、本件の如き事情の場合には、これを「壺川」なる氏に変更を求めるにつき戸籍法第一〇七条第一項にいう「やむを得ない事由」に該当するというべきである。

そもそも同条の規定は、氏が名とともに国家社会における個人を特定する標識とする制度なるが故にこれを安易に変更することを許すと個人と国家社会との関係に混乱を生ぜしめるおそれがあるので、「やむを得ない事由」がある場合に限つてこれを許すこととし、みだりに個人の意思による変更を許さない趣旨である。抗告人の本件申立は、単に抗告人の個人的な利益のためというだけではなく、「壺川」なる呼称が抗告人を表示するものとして社会的客観的にも定着しているものとすれば、むしろ申立のとおりこれを戸籍上の氏として使用せしめた方が国家的社会的な関係においても氏の制度の趣旨に適合するのであつて、これを認めずに「坪川」なる氏の使用を強要するのはかえつて抗告人の同一性を惑わし、社会生活を混乱せしめることになるというべきである。

原審は、「壺」なる字は手書する上で相当に困難な字画に属し往々にして全く別字である「壼」(コン)なる字と誤記されかねないというが、「壼」なる字が仮に別字として存在するとしてもそれは世間一般ではほとんど使用されていない甚だ専門的な漢和辞典に存するに過ぎないのであつて、仮にこれが「壺」の誤字として使用されることがしばしばあるとしても実際上何らの弊害もあり得ないのであり、又、「壺」なる字より困難な字画に属する漢字を氏として使用している例は数知れないほどに存するのである。したがつて、いずれも抗告人の本件氏の変更の前記のような必要性を排斥するほどの理由とはならないといわねばならない。

また、原審は、(つぼかわ)なる氏は世上「坪川」と表記されるのが一般であるというが、これとて「壺川」なる文字の使用を排斥するだけの理由とはならない。そもそも一般に(つぼ)なる発音の漢字は「壺」と「坪」の二字以外に存しないのであり、しかも「坪」は地積の単位として使用する文字であり、言語であるのであつて、普通単に(つぼ)と表音する場合は「壺」なる字を想定するのが一般である。したがつて、(つぼかわ)なる氏を表示する文字として「壺川」なる漢字を使用したとしても何ら奇異に属するものではない。

以上の次第で、抗告人の本件申立を却下した原審判は不当であるので本件即時抗告に及んだものである。

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